お坊さんになりました(2)
光柳院住職の娘の寺カフェ椿店長の千春です。
前回お坊さんになりましたと言うことを書きました。
なぜお坊さんになったのか、お坊さんになるという事はどういうことなのか。
誰かのお役に立てればと言う思いで書いております。
少しでも何か書くと言うことを目標にしていますので今日も少しですが書きます。
お坊さんになると法名といって、お坊さんのお名前をいただきます。
これまでの人生とお別れをして、新しく生まれ変わる、仏様の弟子になるということで、新たにお名前をもらえるということだと思っています。
お坊さんになるために得度式(出家)という式を行いますが、その中で家族友人恩師など、紙に書いて壁に貼ってあるものですが、それに向かってさようならの三礼をしました。
いちど死にます。生まれ変わるともいいます。
法名の話に戻ります。
私の母の光照(こうしょう)というお名前もお坊さんの名前です。
母は、母のお坊さんの先生である井上卓勝先生に付けていただいています。
私の法名は寂光となりました。
母と井上卓勝先生に付けていただきました。
正直に言いますと、最初聞いた時は寂しいという字にショックを受けました。何か私が寂しい人間なのかと思ったんです。
ところが寂しいという字は、仏語の意味があって、迷いがある状態から抜け出した境地、涅槃(ねはん)のことを指す、とのこと。
こんな意味があったとは🤭
これ以上ないお名前です。
かの有名な瀬戸内寂聴さんのお名前の一字でもありますね。
瀬戸内寂聴さんですが、お誕生日が同じなんです。
奇しくも私の得度式の前日にお亡くなりになったという報道が出ました。
寂聴さんと同じ誕生日という事は母は知らなかったし、出家をすると決めたのは数ヶ月前でしたが、その時から寂の字を私の法名につけることは聞いていました。
不思議なご縁を感じます。
今日はその瀬戸内寂聴さんのお言葉をご紹介します。本に書かれていることで私が少し省略したりまとめたりしております。
人はなぜ生きるのか。
それは愛するため。
お釈迦様はこの世は苦だとおっしゃられた。
確かに苦はあるが苦にあうたびに人間は強く鍛えられ他者の苦しみが想像できるようになる。
自分が辛かったことをかえりみて、他者の苦しみを少しでも和らげてあげたいと思う。
それが「思いやり」で「思いやり」こそが愛。
愛とは自分以外の人の心を想像し、その願いを叶えてあげたいと思う優しさ。
お釈迦様は亡くなる時、この世は美しい、人の心は甘美あるとおっしゃいました。
この世は苦であると認識されながら、こんな美しい言葉を私たちに残してくれました。
人を愛し、思いやり、幸福に生きましょう。